復興財源に託した願いとは・・

「償還制度」の存在を明らかにされない・・・という話をよく言われるが、どうしてでしょうか?

MSA協定を見れば、第5条に、第三者に影響を受けない形で隔離した資金を持つことができる・・・と書いています。簿外資金で隔離して保管するので、「ここにある」と宣言すれば、第三者から影響を受けるきっかけになりますし、同時に隔離した資金として言えなくなりますので、この資金に対して、国は、何を言われても「発言しない」ということでしょう。

とは言え、MSA協定について、国会審議の文章を熟読すれば、当時はこのようなことを論議されたことはよく理解できます。

 

償還制度について、前回のブログでも説明しましたが、「国が破れ、そして、空襲により焼け野原になり、産業も壊滅し、そしたら、残るのは、復興したいという人の意気込みだけじゃないか・・・ということで始まった制度と書きました。

 

まさに、「国破れて山河あり」 の境地だったでしょう。多くの国民がその時感じたことは、日本の殆どの都市が空襲の結果、焼け野原になり、そして、数百万人の日本人の命が絶たれました。政府も連合軍により壊滅され、日本全国の主要工場も焼失しました。

玉音放送を聞いた国民は、呆然と立ち「国破れて山河あり」と感じた。しかし、もう戦いはない。終わったことだと心を改め、復興に尽力した。

政府もGHQの管理下であり、金もなにもない。じゃあ、復興について、相談する、直談判するのは、進駐軍に話をするしかない。「日本には、何もなくなったが、やる気ある人がいる。やる気ある人を見て、産業復興のための金を貸してくれ」と相談したのでしょう。それが、経営者の外的与信枠(個人の与信枠)を使った融資制度、すなわち、償還制度だったと言えます。

その結果、融資制度と同時に産業支援制度(補助金)を行うことで、融資制度を活用した経営者は、産業支援制度を適用させ、補助金により支払いを補助されたということが言えます。

その法整備をおこなったのが、「日米相互防衛援助協定=MSA協定」における基幹産業における支援制度です。その財源は、MSA協定第5条に記載されているMSA資金だったということになります。

このように歴史的背景と流れを見れば、よく理解できるかと思います。

 

その結果、1951年に償還制度《米国の国際金融機関からの融資制度》が始まった。すなわち、個人のやる気だけで復興させるための財源を米国から借り受けることになる。しかし、それを支援するための法整備をするために、1954年にMSA協定が結ばれ、米国から基幹産業に対して支援金を出すという提案があった。それを受けて、日本では、「経済援助資金特別会計法」を作り、日本の基幹産業への補助金制度が始まった。MSA協定における日本への補助金制度は、99年の契約を結んでいることで、現在もその制度を行っている。ただ、それだけのことです。

 

なぜ、経営者個人なのか?という疑問を言われることがあるが、基幹産業である条件を満たせば、そのリーダーである基幹産業企業のリーダー(代表権者個人)に対して、財源を提供するので、日本を育てる産業を育成してほしいという願いがある資金と言うことになります。

戦後70数年が過ぎ、街も変貌し、焼け野原になった日本の風景を見ることが出来ませんが、その当時に結ばれた契約であるので、今でもその精神が「償還制度」 MSA協定における支援金制度=MSA資金には残っています。現在では、長期運用され財源も巨額になり、70年前の状況が変わっていますが、基本的精神は同じです。民間で日本を復興させたい発展に寄与したい人物に財源を与える制度であること・・・それが、この制度に託した願いです。