さて、信じられないことを信じてもらうにはどうしたらいいのか?まさに、この話を続けていく上で、感じることは、禅問答のようだと思うことがあります。
説明者は、「巨額資金を東証一部企業の代表者に差し上げる」
それを聞いた人は「世の中にそんないい話はない。」
隣の人は、「そんな話には必ず裏がある」
また、隣の人が「汗水たらさないで、お金など得れるはずがない」
また、向かいの人が「馬鹿げた話を言うやつは、嘘つきだ」
横で聞いていた人が「そんなうまい話なら、だれでもやるよ」
と、人それぞれ、一つのお題目に対して正しい回答が見えない場合には、色んな意見を言い始めます。
それは、禅問答における公案といわれる質疑応答に似ています。
禅問答において、いちばん重要なことは、「思い込みは、本質を失う」という概念があります。人は、教育や育った環境で常識という「思い込み」を習得しています。
その思い込みを超えるなにかに遭遇したときには、必ず、否定的な回答を言います。
すなわち、知らなくても、その壁を超える心が好奇心や、冒険心になります。
逆に、今まで知ったことを以外の経験をしようとしないことは、固定概念に固執するという状況です。保守的などとも言われます。どちらが、良くて、どちらが悪いという回答はありません。守ることで、自らの生きる世界を守ることで生き抜いている人もいます。また、常に新しいことにチャレンジして見聞を広げようとしようとする人がいます。
すなわち、禅で言う悟りの世界というのは、本質は何であるのかと思い込みを取り除き、深く追求することで、悟りを得るという考えになります。
すなわち、探究心が重要になります。
本ブログは、「巨額資金の謎」という探究心から本資金について解説を始めています。確かに、3年目に入りましたので、探究心から結論に達していますが、結論を知ったからと言って、そこは、悟りには達していません。資金の存在の有無について追求すること。それが有るという現実が理解出来き、そして、資金の運用組織などがどうなっているか、その歴史はどうなっているか、また、現在、この資金を決済しているのは、だれであるのか?など、いろいろ追求していくことで見えてくることがあります。すなわち、スタートである、巨額資金の謎について追求するというアクションを起こさない限り、その奥底に待っている次なる疑問がみつならないのです。
探求というものは、際限のないものです。この資金は、国家の安全保障費を捻出するための案件であるという一定の答えを得たものですが、安全保障という概念、その本質は一体どういうことなのか?最終的に向かうのは平和なのか、軍事的圧力なのか?など、安全に対する考え方もいろいろ持つことができます。
みんな同じように平等に豊かになることが人類にとって幸福なことか?また、一部の資本家が強大な資産を持って、世界を支配したほうが、幸福なのか?その答えは、それぞれに有るかと思います。探求して、論じること、探すことをしなければ、問題も見えてこなければ、それに対する新たな回答も生まれません。すなわち、「思い込みをせずに、本質は何であるか、常にニュートラルに物事を考えて、心の奥底から湧き上がってくる誠の精神によって、答えを導くことが重要かと思います。
よって、常にこのブログは、常に探求し、誠の精神によって、感じるがごとくこの奥深い話を書いています。それが、人類にとってどんな意味があるのか回答が出るまで、公案するのが、このブログの役目だと思っています。