日本の赤字国債の歴史を研究すれば、米国援助の育成資金との関係性が理解できます。
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日本では、財政法第4条「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。」と、国債発行を原則禁止している。しかし、同条文の但し書きに「公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる」と、例外的に建設国債の発行は認めている。
しかし、1965年度の補正予算で赤字国債の発行を1年限りで認める特例公債法が制定され、赤字国債が戦後初めて発行された。1975年度以降は1990年度から1993年度までを除き、ほぼ毎年度特例法の制定と赤字国債の発行が恒常的に繰り返された。
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【ポイント】
1965年から始まった赤字国債の発行
1975年から1989年まで毎年発行
1990年から1993年は、赤字国債発行がない
その後1994年以後現在まで赤字国債を発行が毎年行われている。
ここで注目してもらいたいのが、
1990年から1993年度までは、この期間だけ赤字国債が発行されていないのは、湾岸戦争時期に企業育成資金が結構動いたために、国に安全保障費としての財源が入ったために、赤字国債の発行する必要がなかったという話。
1964年に東京オリンピックがあって景気の冷え込みのために1965年に赤字国債を発行した理由は、その裏では、米国からの工業支援を名目に日本政府に贈与されていた資金に関して、政治とカネの問題が発生したことで、米国からの工業支援名目の贈与金の支給を停止され、日本政府の補填財源をなくしました。
財源不足を補うために、赤字国債の発行に踏み切った。すなわち、戦後復興期から1964年まで日本が赤字国債を発行せずに、東洋の奇跡と言われた経済発展の影には、米国からの日本の工業支援をする贈与された資金が相当活用されたことが理解できます。日本は、米国の支援なしで、自立できない国家財政の構造になっているといえます。
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1965年当時は前年の東京五輪にかけての好景気の反動で需要が大幅に減少し、景気は急速に冷え込みました。そこで佐藤内閣は補正予算による景気テコ入れに乗り出し、その財源として赤字国債の発行を決めました。満期7年、利率は6.75%で総額2,000億円でした。
その後、赤字国債は恒常的に発行が繰り返され、1994年度以降は毎年度発行されています。国債の発行で不況による一時的な歳入不足を補い、増税を回避できるメリットがあります。しかし、歳入を国債に依存すると財政規律が乱れ、後世の負担増や通貨の信認低下を招くとされています。
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霞が関の埋蔵金と言われた米国支援の日本の工業支援のために贈与された資金の存在が日本の戦後復興を支えたことになります。しかし、1964年を過ぎたことから米国からの支援を政府が直接動かすことができなくなってからは、長期的な財政難が続いています。
その問題について、当時の政治家も表にできないということで、景気の悪化を理由にしていますが、実際のところ問題は、米国支援に依存していた日本の国家予算の構造にあり、その問題を民間活動ともに解決しなければないけないということも公表できずに、いつか、この問題が解決できるときがくるのではないかと待っている状況が50数年続いています。
よって、この問題について解決する時期が来たといえます。この日本の借金問題に向かい合うために、プロの育成資金コンサルタントを養成することで、この米国と日本による共同事業による借金問題解決のためのプロジェクトを行います。
やることは簡単です。育成資金を申請できる条件を満たした経営者に、日本が米国から工業支援の財源を動かさない限り、国家財政が健全化できないという仕組みがあることを知らせるべきです。
少しの協力で、日本はすぐに救済できます。
それを行うのが、プロの育成資金コンサルタントの仕事になります。
この問題の解決は、政治家でも高級官僚でもできません。
【政治家、高級公務員の立場(公的立場の方)が企業育成資金について勧誘することを禁止されているため】
この問題の根本的原因を知っている民間のプロの育成資金コンサルタント以外解決できない問題なのです。
MSA総合研究所は、民間のプロの育成資金コンサルタントを日本全国に300人養成するために活動しています。