日本の長期高度成長を支えた金融政策、米国では、「ブレトン・ウッズ協定」が結ばれて、第二次世界大戦後の世界経済の復興財源が協議された。詳しい内容は下の文章を参考にしてほしい。
すなわち、ドルを世界の基軸通貨にするために金 1オンスを35ドルで資金を作り、その資金を運用することで、世界の資本主義経済を拡大しようと試みた、しかし、市場経済の拡大、また、世界情勢の変化で、ドルが金の裏付け以上に発行されたことで、1971年、ニクソンショックにより終局を迎える。
日本は、1952年に世界銀行、IMFに加入し、そこからの資金調達を行い、戦後復興の財源を確保した。これが日本に言う「MSA協定資金による基幹産業への支援制度」である。別名「償還制度」ともいう。
ブレトン・ウッズ協定(ブレトン・ウッズきょうてい、英語: Bretton Woods Agreements)とは、第二次世界大戦後半の1944年7月、アメリカ合衆国のニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)で締結され、1945年に発効した国際金融機構についての協定である国際通貨基金協定と国際復興開発銀行協定の総称。「アメリカ合衆国ドルを基軸とした固定為替相場制」であり、1オンス35USドルと金兌換によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定させる仕組みであった。この体制は1971年のニクソンショックまで続き、戦後の西側諸国の経済の復興を支えた。この協定に基づいて確立した体制のことをブレトン・ウッズ体制という。
____________________
国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)の設立を決定したこれらの組織を中心とする体制である。 この協定が出来た理由は大きく分けて2つ。1929年の世界大恐慌により1930年代に各国がブロック経済圏をつくって二度目の世界大戦をまねいた反省によるもの。 第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を安定化させるため。 という上記の2つの理由から作られた。 そのため具体的には国際的協力による通貨価値の安定、貿易振興、開発途上国の開発を行い自由で多角的な世界貿易体制をつくるため為替相場の安定が計られた。IMFについては、イギリスのケインズ案とアメリカのハリー・ホワイト案が英米両国の間で討議され、ホワイト案に近いものとなった。その際、ドルを世界の基軸通貨として、金1オンスを35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めた(金本位制)。この固定相場制のもとで、日本円はGHQ統治体制初期の輸出・輸入通貨レート等が異なる複数レートから、円外国為替政策に関する特別使節団 (ヤング使節団)の提案する単一1米ドル=330円レート案(ヤングレポート 1948年6月)を元に、その後の日本の物価上昇を反映しつつも、何故か英ポンド約30%切り下げ及びその連鎖切り下げを反映することなく定められた単一1米ドル=360円レート制(1949年4月25日施行)がそのまま、占領終了(1952年4月28日)後の、1952年の日本のIMFおよび世銀へ加盟に伴う、翌年のIMF平価申請になってIMFに採用され、この1米ドル=360円(変動幅±1%)[1]に固定された。 この体制下で西側諸国は、史上類を見ない高度成長を実現。特に、日本は1950年代から1970年代初めにかけて高度経済成長を実現し「東洋の奇跡」とよばれた。